ヨーロッパの歴史〈2〉植物からみるヨーロッパの歴史
(放送大学教材)
草光 俊雄 (著), 菅 靖子 (著)
出版社/ 放送大学教育振興会 (2015/03)
日本人と植物学との関係を中国から渡来した「本草学」との関連で概観し、西洋の近代的な植物学との出会いによってそれがどう変質したのか学ぶ。(p11)
ヨーロッパの風景、園芸植物は近代になってから作り上げられた
新しい趣味の誕生、新しい世界観を獲得しようとしてもたらされたもの
人間と植物の付き合いは長い。食料として、薬草として、人間は植物を利用してきた。花の美しさを愛し、そのために植物を栽培しようとしたのはそれほど古いことではない。
近代社会は合理性・効率性を求め始めた時代である。そうした時代に美しい花を愛でようとする考えが、社会一般に広がったことをどのように理解したらよいか。
そこに人間存在の複雑さを見る。また、美しい花の生産が、合理主義によって増幅されたという面も無視できない。
異種の植物を交配させて新種の植物を生みだす最初の実験・・トマス・フェアチャイルド 1716年 ロンドン郊外ホクストン
まだ一般的でなかった植物の性の存在←アメリカナデシコの雄蕊とカーネーションの雌蕊の掛け合わせ・・両者の特徴を備えた新しい品種を誕生させた
ヨーロッパにおける植物学(botany,plant science,plan biology): ギリシア起源 牧草、飼い葉
植物への関心は、主として薬草を同定するための研究
東洋の本草(学)も同様
本草学の成立:中国 前漢の末頃 最古の書物:『神農本草経(しんのうほんぞうけい)』
西暦紀元頃にその原型が書かれた
6世紀 陶弘景『神農本草経集注(・・しつちゅう)』(略称:『集注本草』)
7世紀半ば 蘇敬(そけい)・・勅撰本草『新修本草』(『集注本草』の改訂・増補版)
16世紀末 明 李時珍(りじちん)・・『本草綱目』(薬物志向から博物学志向への革新)
日本の「本草学」・・8世紀に始まる
701 大宝律令・・「典薬寮」の医生(いしょう)と薬園生(やくおんのしょう)に本草の学習を命じる
10世紀初め 深根輔仁(ふかねのすけひと)『本草和名(ほんぞうわみょう)』(『新修本草』にもとづいて漢名を和名と対比させ日本の産地を特定しようと試みた)
1604年 『本草綱目』が伝わる【本国で出版の8年後】
1637年 『本草綱目』和刻本刊行・・日本でも本草学が薬物学と博物学に分化し、博物学が物産学と結びついていく
平賀源内 『物類品騭(ぶつるいひんしつ)』
小山蘭山『本草綱目啓蒙』
岩崎灌園(かんえん)『本草図譜』
1709年 貝原益軒『大和本草』(本家の『本草綱目』の分類体系を批判)
・・山田慶児氏によれば、こうした批判精神が、西洋近代の博物学を吸収する際に中国的な本草モデルから離脱する際の学問の土壌となった
エンゲルト・ケンぺル:『日本誌』
元禄時代(17世紀):ガーデニング(園芸)ブーム:野生の草本を移植・栽培⇒「奇品」
・・変化朝顔(へんげあさがお)、万年青(おもと)
園芸発達の要因:園芸書・植木市。植木鉢の生産by「花戸」(かこ)=植木屋
平賀源内・・[薬品会](博覧会のような催し):俳諧の「連」の組織にインスピレーションを受けネットワークの力で薬品を集めて展示した:by田中優子『江戸の想像力 』
1543年:種子島鉄砲伝来(ポルトガル)
1550年:平戸で南蛮貿易開始
「出島三賢人」
エンゲルベルト・ケンぺル(1690~2年間滞在)
カール・ペーター・ツンベリ(1775~2年間)…リンネの弟子⇒分類法を教える
フイリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1823~6年間、1859年~3年間)
日本人の門人を育てる
西洋に日本の博物世界を紹介・・日本人の貢献があった
長崎通詞:吉雄耕牛、桂川甫周、中川惇庵
蘭学者たち
青木昆陽(吉雄の弟子、サツマイモ)
野呂元丈『和蘭陀本草和解』(日本で最初の西洋博物学の翻訳)
伊藤圭介『泰西本草名疏』(たいせいほんぞうめいそ):学名和名対照
宇田川榕庵(ようあん)『菩多尼謌(ぼたにか)経』
飯沼慾齊『草木図説』(リンネの体系を用いる)
1982年:『日本の植物学百年の歩み━日本植物学会百年史━』
こちらのWebサイトでPDFが読めます⇒植物学会の歩み:http://bsj.or.jp/jpn/members/history.php