こちらは、公開空地花壇と植物園のボランティアvolunteerの、
季節の花を愛で、花に学ぶ、個人サイトです。
よろしかったら文化探求をご一緒に。
花の文化園の梅園入口
ちょっとなまめかしいww(これは3月の写真)
梅園内
の梅は、「130品種300本」あるとか。⇒昨年の2月の頁再掲
岩波新書の「花を旅する」栗田勇著(2001年の刊)などを参照しながら、
一年かけて、花の文化を考える旅をするというテーマです。
やはり万葉集から始めます.
天平二年(730年)
大宰府(大陸との窓口)で大伴旅人が梅の宴を開き、
「梅花三十二首」として、招かれた客、山上憶良他
仲間の歌が残されている。
この歌は、 王羲之の「蘭亭序」太宗「除夜」などを踏まえている。
以下 さらに抜書き(栗田勇著)
「日本で一番最初に梅が出てくるのは、
懐風藻(751)の葛野王(かどのおほきみ)の五言詩といわれている。」
「梅に鶯」がでてくる。
「中国の詩のパターンを追って何とか自分のものにしたいという段階の詩」
奈良の貴族階級に、漢詩などと一緒に8世紀頃、梅は文化として入ってきた
中国文化の輸入期の(中国文化の)象徴
万葉では「桜」というが、歌の数では「梅」は118(首)で萩について多い
⇒万葉集の頃には梅が日本化していた」
持統朝屈指の教養人葛野王による、
「春の日、鶯梅(おうばい)を翫(はや)す」、
隋の江総という詩人の「梅花落」のパロディ。
梅に鶯の美学の初登場。
日本律令国家体制の最高指導者層の文化意識⇒「みやび」を
先進大国の中国の詩文を模倣を通じて形象化することに
製作動機があった。
梅は律令支配の花、都市貴族の花。(斎藤正二)
「この時代は花といえば桜ではなく、梅だった
松竹梅……格が違う」
⇒ 「他の花が全く咲いていないときに、しかも葉がないのに、
花がぽっぽっと咲いていくのが実に不思議
古びた幹が時を刻んでなんともいえない自然の姿を見せていく」
⇒梅には「霊性を感じさせるところがある」
⇒天神信仰(古来からの民間信仰)
農作物は自然現象に影響される
天神が荒ぶると疫病や暴風雨がやってくる
「天神は雷神や雨、川、蛇と結び付けられて、おそれられていた」
「天災地異や疫病流行をもたらす怨霊を鎮めようという怨霊信仰が
天神信仰というはっきりした形をとり、
御祭神として菅原道真を敬い、そのことによって災厄を逃れるという信仰になった」
菅原神社は1万数千社もある。
そのシンボルとしての梅の小枝が日本全国に広まった。
(梅の紋章)
中国文化の再流入
鎌倉末から室町時代(中国の宋から元) 渡唐天神
(天神さんが唐に渡って禅宗のえらいお坊さんに学んで 衣鉢を受けて日本に帰ってきた)
中国の文人風で座っていなくて、手に梅の枝を持った姿で定まる
次第に 天神様の話、飛梅の話がポピュラーになった
謡曲、歌舞伎、工芸、あらゆるところに梅が出るようになった
時代物(歌舞伎)「菅原伝授手習鑑」……江戸時代に大当たり
書道の神として寺子屋で祀る
謡曲「鉢木」
以下 さらに抜書き(栗田勇著)
「日本で一番最初に梅が出てくるのは、
懐風藻(751)の葛野王(かどのおほきみ)の五言詩といわれている。」
「梅に鶯」がでてくる。
「中国の詩のパターンを追って何とか自分のものにしたいという段階の詩」
奈良の貴族階級に、漢詩などと一緒に8世紀頃、梅は文化として入ってきた
中国文化の輸入期の(中国文化の)象徴
万葉では「桜」というが、歌の数では「梅」は118(首)で萩について多い
⇒万葉集の頃には梅が日本化していた」
能衣装の「扇面梅文模様」
……美しく図案化された梅模様
(豊臣秀吉が長浜城主になったとき、長浜八幡宮に奉納した)
日本独自のものとして評価されているという。(栗田勇)
(この能衣装 文様について検索しましたがよくわかりません。)
あるいは「利休梅」と呼ばれるものであるかどうか(宿題)
(能・狂言の本棚)檜書店
「梅の花三輪」ということわざがありますが、
秘すれば花、その香りと余情が梅の命です
(栗田勇)
補遺 大岡信の折々の歌から
太田記念美術館酒井抱一の扇
野村美術館蔵 源氏物語 紅梅図 酒井抱一筆
Sakai Hōitsu Japan; Handscroll; Paintings Date 1815
(33.9 x 925 cm) Collection Metropolitan Museum of Art
2023年2月15日 堆肥×8袋 石灰1袋 化成肥料1袋 緑化協会から受領後倉庫へ。
寒肥散布済(ふれあい花壇)花格子の会(Facebook)